人生交差点

生きているかぎり、本をつくる。前編

2022.03.07

不意に押し寄せる波を、うまく乗りこなせたらいいな、とよく思うんです。そう、まるで波乗りジョニーみたいに。札幌の地で出版社を営む寿郎社(じゅろうしゃ)の土肥寿郎さんも、波乗りジョニーなひとり。札幌に帰って会社を興すことになるとは夢にも思わなかったそう。土肥さんに押し寄せた“波”とは?

今回の投稿者
寿郎社 代表
土肥 寿郎さん
サンセリテ編集部
インタビュアーのカカオです。今回ご登場いただくのは、編集者の土肥寿郎さん。札幌で「寿郎社(じゅろうしゃ)」という出版社を立ち上げ、これまでに130冊もの本を世に出しています。

あらためて人生について考えてみると、予想がつかないから面白いのだと思います。「ビジョンを持って、計画的に生きていけば幸せ」なんて、まやかしです。どっちに転んでいくのか、わからない。いつ、どんな事が起こるか、わからない。突然の出来事を面白がる。そんな柔軟性のある人間でありたいものです。そうですよね、土肥さん。

“編集”と出会う。

北海道で生まれ育ち、高校を卒業し、すぐ東京へ。いろんなアルバイトをしながら、早稲田にあった日本ジャーナリスト専門学校に通っていました。アルバイトのひとつに編集プロダクションがあって、そこで、編集の仕事と出会ったんです。雑務をやって、楽しくなって、ちょうど独立を考えていた現場責任者から「いっしょに来ないか」と誘われ、いわゆる編集プロダクションにお世話になることになりました。

編集プロダクションでの経験がその後の人生に大きく影響していると思います。最初はアルバイトだったけれど、原稿運びから、取材、執筆、デザイン、校正までなんでもやりました。主婦と生活社のグルメ雑誌とか、福武書店(現ベネッセ)の受験雑誌などを、3人の会社で請け負っていました。今思えば奴隷労働ですよ(笑)。4日、5日、家に帰らないのは当たり前。食事は天屋ものばかり。3食ラーメンとかチャーハンが続くから、丼が山盛りになっていましたね。

美味しいパン屋さんのコラムを書くとなれば、電話で取材して、自分で写真を撮りに行って。テニス雑誌の別冊や、サッカー雑誌も担当した。テニスもサッカーも全然興味がなくてね。特に、当時のサッカー業界は体育会バリバリの世界だから根性が大事って感じで。怒られてイヤでしたよ(笑)。

3年間、いろんな仕事をやって楽しかったんだけど、そういう仕事に慣れてくると、請け仕事ではなくて、もっとやりがいのある仕事がしたい。世の中のためになる仕事をきちっとやってみたいと思うようになって、やはり出版社に入らないとだめだ、と思ったんです。

札幌駅からほど近い寿郎社のオフィスにお邪魔して。サンセリテのことを「健康食品の会社?」と最初は怪しまれたそう。でも、商品の製造や販売のやり方を包み隠さず公開する姿勢に「とても正直な会社だと思いました。」と土肥さん。ホッとしました(笑)。(by サンセリテ編集部)

3行の広告に、4000字のラブレター。

ある日、朝日新聞に「3行の広告」を見つけました。晩聲(ばんせい)社という小さい出版社の求人広告でした。

十勝出身の和多田進という人が社長なのですが、僕はそこの作品をほとんど全部読んでいて、大ファンだった。「ここしかない!」と思いました。ただ、履歴書を送っただけで受かるとは思えない。何かしないとならない。そうだ、と思いついたのが、和多田進さんに宛てて書いた「私と晩聲社」という作文でした。3日かけて、原稿用紙10枚、4000字書きました。晩聲社への愛をどうやって伝えるか?を考え抜いた答えでした。

晩聲社には足かけ10年いました。社会問題に関わるルポタージュや当時のジャーナリズム批判などの本をつくりました。

受験雑誌やテニス雑誌をつくるのにもやりがいはある。でも、それはだれがやってもいい仕事であって、取り替えが効くというのかな。自分がいなくてもできると思っていました。比べて晩聲社では、自分がいなかったらできない仕事、自分で企画した本をつくることができました。

社長の和多田さんはむちゃくちゃおっかない人で、社員はみな2〜3年が限界と言われていたので、10年続いた僕は珍しかったと思います。

突然、故郷へ。

1997年、地元の友人から1本の電話がきました。テレビで日勝峠の交通事故がニュースになっている。巻き込まれたのは僕の両親と兄貴じゃないか?と言うんです。観光バスと正面衝突した、と。

両親は危篤。兄貴は障害者で、両親がいなければ生きてゆけない。それで、「その状況にどう対応するか?」考えなければならなくなった。しょうがないな、と突然、帰らざるを得なかったんです。1997年というのは、拓殖銀行が潰れて、北海道の景気がどん底だった時代です。

故郷に帰った私は、札幌にある広告の制作会社に就職しました。求人情報誌にクリエイティブの仕事がそれしか載っていなかったので、出版とはまた違った職種ではあるのですが、なんとかなると思って入ったわけです。

出版社って、いろんなことをやりますよね。例えば取材先を選定して、どうやったら取材を受けてくれるかを考えながらアプローチする場合でも、電話、手紙、メール、書き方ひとつで結果は変わる。そういうことを積み重ねてきたから商品説明のためのコピーにしても、イベント企画や広告プランにしてもできると思ったわけです。

サンセリテ編集部
ちょ、ちょっと待ってください。笑ってお話しされていますけど、とても深刻ですよね。ご家族の不慮の事故から帰郷を余儀なくされ、仕方なくコピーライターにって、ジェットコースターのようなお話しで、クラクラしてしまいました。そこから再び編集者に返り咲くまでの経緯、聞かせてください。

出版社?すぐつくります。

広告の仕事を2年くらいやって、特にやりたいわけでもない広告の仕事を続けていて、これでいいんだろうか?ふと我に返ったんですね。

奇跡的に両親の具合がよくなって、給料も上がって、心に余裕が生まれていたのです。「もう一度、編集者をちゃんとやりたい」と思いました。でも、北海道に入りたい出版社はなかった。自分で出版社をやるしかないと思いました。

そんなとき、またもや思いがけない出来事が。広告プランナーとして最後に引き受けた仕事で米木英雄さんという建築家と出会ったのです。

広告プランナーとして受けた最後の仕事が、旧千歳空港を会場として行われたユニバーサルデザインフェアでした。大手広告代理店からの丸投げの仕事で、コンセプトづくりから、何をやるかから、ぜんぶ担当しました。障害者用の衣服や車椅子、手すりの出展を、日本中のメーカーにお願いして、講演会の講師も探しました。

その講師のひとりが米木さんでした。交通事故で車椅子生活となった息子さんのために、健常者と同じように住める家を絶対つくる、とバリアフリーの家づくりを行っていた方です。考え方が素晴らしく、新しかった。イベント会場の控え室で世間話をしていたとき、米木さんが言ったんです。「北海道新聞社から一冊本にしたけど、中途半端でね。そのあと考えた理論も含めて、きちんと自分のバリアフリー住宅のことを本にしたいんですよ。だれか本にしてくれる人、知りませんか」と。僕は「ここにいるよ!」と。「米木さん、僕はプランナーでもコピーライターでもなくて本当は編集者なんですよ。いつか出版社をつくりたいと思っていたんですけど、今すぐ出版社をつくりますから、その本、僕に出させてください!」と言いました。それが、2000年2月。寿郎社の誕生です。

米木さんとつくった本『在宅介護時代の家づくり・部屋づくり ―超高齢社会を豊かに暮らす』は、初版3000部刷って、すぐに1000部の増刷となりました。北海道庁が、その本に書かれている米木式バリアフリー住宅を道営住宅に採用しました。

建築家 米木英雄さんとつくった本。寿郎社を立ち上げるきっかけとなった一冊。右は、寿郎社の創業を知らせるマガジン。これを見て、社長山本が興奮。「覚えています。これ買って読みました!」。(by サンセリテ編集部)
サンセリテ編集部
米木さんとの運命的な出会いが、出版社の設立につながった、だなんて。人生、なにがあるかわかりませんね。後半は、編集者としてだけなく、経営者として悪戦苦闘する土肥寿郎さんの人生について聞きます。お楽しみに。つづく。

この記事を書いた人

外山 夏央

サンセリテ編集室統括局。新潟県生まれ東京都在住。1年の3分の1が雪に覆われる豪雪地帯で育つ。それゆえカラッと晴れた冬空の下で飲むビールが大好物。好きなものを好きなだけ食べて飲みたいがために、31歳にして初めて筋トレを始める。背中の贅肉とおさらばするのが今の目標。

この人の記事をもっと読む
この連載をもっと読む