人生交差点

夢は、女性初の内閣総理大臣になること。

2022.11.30

「女性初の内閣総理大臣になる」という明確な目標に向かって突き進む、起業家でありモデルの瀬戸ありすさん。大学を卒業したばかりの22歳です。「どうしてそれほど真っ直ぐなんだろう?」と思いお話しを聞いてみると、強さと同時に「人生、なるようになる!」という柔らかいマインドを持っていることがわかりました。頑固さと柔軟性、2つを上手に操るありすさんのものがたりです。

サンセリテ編集部
インタビュアーのとやまです。今回、登場いただくのは起業家の瀬戸ありすさん。モデルと二足の草鞋を履くパワフルウーマンです。

ありすさんの人生を紐解くと、「頑固さと柔軟性」という2つのキーワードが見えてきました。どんな困難に遭遇しても、目標を変えない強さを持つこと。それでいて手段はいつも柔軟に、臨機応変に修正していくこと。頑固さと柔軟性を合わせ持つことが、人生をより豊かにする秘訣と言えるかもしれません。そうですよね、ありすさん。

「ありがとう」と「こんにちは」だけで、ペルーへ。

中学3年生の6月。突然、母の故郷であるペルーに引っ越すことになりました。祖父母の体調が良くないと連絡があったからです。父は日本に残るというので、私もそのまま残れたのですが。正直言うと、高校受験から逃げたかったんですよね。ペルーへはそれまで10回くらい行ったことがあったし、大丈夫かなぁと。スペイン語は、「ありがとう」と「こんにちは」しかしゃべれませんでしたけど、「なんとかなる!」と思って行っちゃいました。

すごいなと思ったのは、母が私たち兄弟を、日本語学校ではなく、「現地の学校」に入学させたこと。もうそういう状況になったら、否が応でも言葉を覚えるしかないじゃないですか。すさまじい能力を発揮して(笑)、3ヶ月で会話ができるようになりました。

実際は大変でしたよ!スペイン語をしゃべれるようになるまでの3ヶ月は本当にきつかった。2階からペンキをかけられたり、まったく身に覚えのない噂を広められたり、日本の文房具が珍しいからか消しゴムやシャーペンを盗まれたり。いじめまがいのこともたくさんあった。原因は、スペイン語が話せなかったことと、文化の違いがあったこと。だから必死でスペイン語とペルーの文化を覚えたんです。

乗り越えられたのは、家族の支えがあったから。特にママの強さには何度も救われました。ペンキをかけられたときは、学校まで乗り込んできて、相手を直接叱ってくれましたもん。強いんです、うちのママ!大丈夫、人生なんとかなる。ママの人生に向き合う姿勢が、私を前に向かせました。

ファミリアと一緒に。
ペルーの大自然の中で記念写真。

ペルーで違いを知り、政治を志す。

数週間旅行に行くのと、実際に暮らしてみるのでは180度違いますね。特に日本人とペルー人の考え方の違いにカルチャーショックを受けました。でも、その「違い」を知ることができて本当によかった。だって、「女性初の内閣総理大臣になる!」という夢を抱くきっかけをくれたから。

ペルーのおばあちゃんの弟は、首都で政治家をしていました。国にとって良い提案をする、良い政治家だったと聞いています。でも、ペルーはマフィアが強い国。叔父さんは、家族の目の前でマフィアに殺されてしまったそうです。日本で生まれ育った私にとって、信じられない出来事です。ペルーには「もっとこう変えたらいいのに」と思うことがいっぱいあった。だから、「ペルーで政治をしたい!」と家族に伝えたんです。私がやりたいことは何でも応援してくれた家族もそのときばかりは「絶対にダメ」と断固反対。叔父さんのような目に遭わせたくなかったんでしょうね。

そこから私の興味は日本に向くようになりました。ペルーで暮らしたことで日本の良さに改めて気づくことができたんです。それに私は「何かを変える」ということがすごく好きで、日本になにか問題があるなら、政治の力で解決したいと思うようになりました。中3から高3までの4年間をペルーで過ごしましたが、18歳のとき、単身日本に戻る決意をしました。

サンセリテ編集部
いじめや嫌がらせにも屈せず、文化や価値観の異なる国で、「自分のやりたいこと」を見つけたありすさん。その強さに感動すら覚えます。日本に戻ってからは、どんな生活が待ちうけていたのでしょうか?

法律を学ぶため、日本へ。

私は横浜で生まれてすぐ福岡県の島へ移り住み、大自然のなかで育ちました。父が暮らす島へ戻り、その後、博多の専門学校で法律について学びはじめました。政治を志すには法律の知識が必要だと思ったからです。学校に近い父の妹夫婦の家に居候しながら、生活費はぜんぶ自分で稼ぎましたね。アルバイトは飲食店、アパレル、事務仕事、勉強の合間を縫ってなんでもやりました。

博多時代はひたすら勉強、勉強、勉強、まさにガリ勉。友達から「テスト勉強した?」と聞かれても「全然してなーい」なんて答えて、裏では死ぬほど勉強していました(笑)。「遊びに行かない?」と誘われたときは、行きたいときに行く。放課後の緩い遊びに関しては「私はいいや」と断りました。法律を学ぶ、政治家になる、というブレない目標があったからです。

そのあと、法律学科の編入試験を受けて、東京の大学に進学しました。高校受験から逃げてペルーへ行った私が、大学受験をするなんて思ってもみませんでした(笑)。

大学生とモデル、二足の草鞋で活動。

東京での大学生活は、すでにコロナが流行していたので、ほとんどオンライン授業が中心でした。それが私にはすごく合っていた!モデルの仕事を両立させたかったからです。

昼間はモデルの撮影に行って、夜はオンデマンドで授業や試験を受ける、そんな生活でした。コロナによる生活の制限も私はそんなに気になりませんでした。そのときの状況に合わせて自分の考えや行動を変えれば良いだけですから。これも「人生、なんとかなる!」の精神ですね。

モデルの仕事を始めたきっかけですか?実はペルーでもやっていたんです。ペルーは中高合わせて5年間なので、日本のシステムと比べると1年余るんですね。その1年の間に英語学校とモデルの学校に通って、仕事をしながら日本で学ぶためのお金を貯めていました。明確にモデルをやりたいと思った瞬間はないんです。きっと被写体になることは私にとって自然なことなんですね。

ビジネスで、政治資金を蓄えたい!

先日、会社を立ち上げました。まだ具体的に発表できるものはないのですが、頭の中にはいろんなイメージがあります。成功するかしないかは、やってみないとわからない。なんでも挑戦ですね!

起業したのも、政治家になるためのステップです。モデルの仕事で顔と名前を覚えてもらい、起業をして政治資金を蓄え、そして、政治家になる。生半可な気持ちでやってきたわけじゃありません。日本を変えるために本気です。

日本って、固定概念が強い国だと思うんです。もっとゆるやかにできたらいいなと思っています。たとえば同性婚のこと。コロナ禍でのマスク着用のこと。「こうだ」と決めたらなかなか考えを改められないのが日本人なのかなと思います。あらゆるジャンルに目を向けて、小さな問題から一つずつゆるやかな方向に変えていけたら良いですね。

外国から学べることも多いと思う。タイ、アメリカ、ヨーロッパ、どこへでも行きます。先日、2週間くらいロンドンに行ってきました。仕事帰りの様子をみると、イギリス人はみんな何だか楽しそう。一方で、日本人は帰りの電車でどんよりしていますよね。「なんでだろう?」「文化や育ちが影響しているのかな?」と分析してみることは、今後の政治活動にきっと役立つと信じています。

サンセリテ編集部
「日本を良い国にしたい」という強い信念を持ち、常に精力的に活動するありすさん。「一生懸命戦う人」という印象を受けます。ご自分ではどんな風に捉えているのでしょうか?

やりたいことのために、“ラフ”に頑張る。

何かと戦っていると思ったことはありません。疲れちゃうじゃないですか。政治をやりたいと思う一方で、「楽しく生きたい」という心はいつも忘れません。

「いつまでに絶対これをする」って突っ走ったこともあるんです。でも、うまくいかなかった。大学生の間に起業しよう、あと1年しかないから急がないと、って。でもそのときは何もアイデアが出てこなかったんですよ。切羽詰まっていると人って何も出ないんですね。

「ミス・インターナショナル」という大会に出場したときもそう。痩せなきゃと頑なに思えば思うほど、痩せにくい体質になっていきました。失敗を経て、私は「力の抜き方」を覚えたんだと思います。

もちろん嫌なことや思い通りにいかないこともあるけれど、気が済むまでNetflixを見たり、大きなため息をついてみたり、思い切り走ったり。「よし!また頑張るぞ!」って切り替える方法をいくつも持っています。だから私は、やりたいことのために、今日もラフに頑張ります。

サンセリテ編集部
夢や目標を持つと、それ自体にがんじがらめになることがある。でも、ありすさんは、頑なにならないよう、いつも上手に力を抜いて生きている。その“ラフさ”が、彼女の強さと言えるでしょうね。ありすさんみたいに、頑固さと柔軟性の両方を操れるようになりたいな。おわり。
この記事を書いた人

外山 夏央

サンセリテ編集室統括局。新潟県生まれ東京都在住。1年の3分の1が雪に覆われる豪雪地帯で育つ。それゆえカラッと晴れた冬空の下で飲むビールが大好物。好きなものを好きなだけ食べて飲みたいがために、31歳にして初めて筋トレを始める。背中の贅肉とおさらばするのが今の目標。

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